2019.05.24(fri)

積極的?能動的?救いとなるなにかは、きっとそのようなもので、そのようなものであったけれど、違うかもしれない。静よりも動が以前まで、ならば、その真逆。祈ること。寄り添う気持ちを神へも託すこと。特定の宗教の神ではなく、最も信頼を置いている高次の存在。あるいは非存在。非-存在と書いていたのはどの本だったか。死ぬ気で頑張るといわれたらわたしには誰かの気持ちを留める権利はないので「そうか、死ぬ気で頑張っても死ななかった。わたしのように運が良いといいねえ、キミも。」と、祈るしかない。応援はあまりにも"動"。死ぬ気で働いて、幾度か死にかけてもまだある。わたしは在る。在りし日の…………中原中也か。ヴィオロン、から始まる詩は祖母のお気に入り。夕陽さん、マリアさま、明日もこの子と私が生きていますように。街が動き出す気配はたまらなくすきで、朝日の、すこし前向きすぎる気配も。なぜか今日は祖母の祈る姿がよぎった。目前なのか、脳内なのか。つくりだした記憶なのか。自分で自分のことがわからないのだから、他者のことなんてますますわからないのに「あの人の一番の理解者だったねえ」は全然褒め言葉に感じられない。ひねくれているからか。それでも、一瞬でも、「味方がいる」と思ってくださったことがあったと信じるのです。こちらでは向上を祈り、あちらでは地の底へ叩きつける。のは、やめにしましょうね。ある人の気持ちから遠ざかること。裏切り。それは最も嫌いなこと。わたしはわたしのためではなく他者のために、実はわたしのためだったとしても。その意識はなによりのエネルギー。あわよくば…………あわよくば、なにか、あるのかしら。あったのでしょうね、あわよくば俺と店をやろうだとか、人間は欲があってこそ。美しさとは欲望に忠実な人間の営み。欲望と、それを理性と呼ぶのなら、言葉と。この脳味噌がまったく新たに考えることなどないとしても、既存と既存の繋ぎ方、それがどこかの何かの誰かの書き写しになったらおしまいです。