2019.06......

昨日だか一昨日だかに見かけたセイバーの髪型は"場"にふさわしい気がして、それにまとめ髪に三つ編みになんて自分ではむつかしい。卑怯さや半端さに耐えられないときは毎回ではなくて、毎回ではないからこそいやになる。たとえば5キロのモノを軽々と運べるのはわたしよなんて得意げになるくせに、とっさに出せる力では全然負ける。強くも弱くもない中途半端さとか、それをわかっていて利用し尽くそうとするのは卑怯だ。いっそゴシップを好む文化に、徹底的に染まっていればいいのに。人間は多面体だと感じていて、こんなことを思うのはまさに多面体というか矛盾だ。「俺ら」だけでは殺伐としてしまうから。馬鹿正直さもこれっぽっちもうすまらなくて鵜呑みにして、緩衝材としてときたま無難な受け答えをしたりなんだり、労働はそれでもいつだってわたしに「ここにいていい」安心感をくれる。あんしん、ではない。はたしてまったく演じることなく過ごせるかといわれたらきっとそれはあり得ない。