イマドキは中食でも内食でもリーズナブルかつ美味しいごはんが得られて、しかも調理の手間もほとんどいらなくて、食に関してはほんとうによい時代だなあと思ったりする。もちろんあの野菜がまるで正月価格のようだってくらいの値上げはあるけれど。そうすると雑なごはん、値引きシールの貼られた商品をとりあえずカゴに入れて、なんかうまいことつくるとか、半端に余っている食材や調味料からそれっぽいごはんをつくるとか、それってなんだか遺物みたいに感じられたりもする。貧民極まれりな時期と、実際に外食よりも断然自炊ごはんが安かった頃とが被ったための名残りというか。断然自炊ごはんが安いのかって疑いはかなり当時もあったように記憶しているけれど、調味料なんて都度都度購入する必要はなかったから、たぶん安かったんだと思うよ。過去を振り返るとき、最近は祖母をよく思い出す。あるいは実父。若かった頃の武勇伝を見せびらかすのはここだけに留めておきたいですね。

閑話休題

人間の感情なんて、きっちりとした線引きができないとはいえ、愛情と執着は別だろうって意識は手放したくない。極端に振り切ってしまえばストーキングのような心持になってしまいそうだし、そこまでいかなくても、魚を釣っただけで満足するようになりそうだし、それって図鑑を埋めるような行為に過ぎなくて、執着のひとつのかたちのような気がする。愛情って、でも、好きだっていう気持ちともたぶん違う。好ましいって、どちらかといえば物に向ける感情に思えてくるときがある。人間への行為ではないような、人間に限らないか。我が愛猫への気持ちは愛に寄っているのでは?そのものがそのものらしくあってほしい、そのものが最も幸福だと感じられる状態でいてほしいと願う。あまりにも潔癖に過ぎるかしら。