男にも女にもできないかわいさやかっこよさを目指すというなら、じゃあわたしは都度自分勝手に解釈している求められている気配やその日の気分に合わせて、どちらにもなれるしどちらでもないになれるし、共通しているのはよくばりなこと。もっとややこしい時期の、思春期真っ盛りなわたしはそれこそ肉体そのものを男性にしたかったけれど、保健室の先生や当時のバイト先の目上の方が、なぜどちらかにしないといけないの?どちらかにしたいの?と、問い続けてくれたのをようやく心底感謝している。振り分けたくなるのはよいことでもあるが、よくないことでもある。とらわれてはいけない。わたしがどうしたいか、だ。今日は薬の効きの塩梅がほどよくて、毎日これならよいのに。毎日これではないからたのしくもある。つらくもある。 たくさんを知るのも、たぶん同じ。知ったことで浮き彫りになる異常さと、もうすこし仲良くしたいわね。生きたいと積極的に思えないけれど、よいサービスを提供したいだとかわたしと似たような食に対する苦手意識のある方だとか、そのようなところを重視しますと、まずわたしの摂食をどうにかしたいですね。やはり終の住処は心の故郷のいずれかにしたく、ならば当面はこの場所で快適さを追い求めましょうか。