2018.09.19(wed)

疲れたと言ってしまえば、芯から疲れてしまいそうで、だからこそ口頭でもモニタ越しでも言わないでおきたいのだが、いかんせん我慢することが不得手なわたしはすぐに疲れたと言う。よくない。声に出したことはそのまま、自身へ跳ね返る、つまり疲れていないはずなのに疲れた顔になるのだ。よくないぞ。

今現在の、ご近所を探検しきれていないのもあり、今年は秋祭り不参加で終わりそう。昨秋は元直属上司と、その奥さまと連れ立って、わたしがおふたりの子供として参加した。実際は大人ゆえ、ビールを煽りながら焼きそばやらたこ焼きやら、縁日ならではフードを、奥さまがビールの間隙をぬって口へ放り込んでくださった。とてもたのしかった。シングルに戻って以降、幼い頃のわたしが夢見たあらゆるモノゴトが、着実に叶っていてそれは恐怖でもある。ハングリー精神を失うこと、満たされたあとの落下、エトセトラエトセトラ。元直属上司とは、いのちの電話が繋がらないとき、他にも、なんとなく話したいが吐き出す相手がいない場合に備え、一方的にでもいいから通話を繋ぐ契りを交わした。今回の帰洛にて。先日は向こうは吐き出し先がなく、わたしは誰かしらの温度を感じたいがそのようなワガママ、代替可能なワガママを言うことは失礼いやしかしつらい。はからずも欲望が合致し、うまく乗り切れた。お互いに。こんな生きづらい世の中、たったひとりで、孤独にサバイヴしていくのは困難だ。元直属上司と、わたしに限れば。すくなくとも。それに気付かず自死を選んでしまったのなら、わたしも気付かないでいたかった。というのまた、ベクトルの違うワガママだ。我の儘に。ときには重要なのだろう。しかし我の思う儘な言動や振舞いが他者を脅かすくらいならわたしは自死を選ぶ。迷うことなく。戸惑う意味も必要もない。己の保身を、まったく、というわけではないだろうが。それは無意識野というものが、ヒトの精神にはあるとされているためで、ただ今現在、覚醒しているわたしの意識上では自己保身など微塵も不要だ。まったくのゴミ屑だ。燃やして灰にして風にでも飛ばすべきもの。まったく自己を防衛していないのならば、このようなゴタクを述べることなく自ら命を絶つはずで、やはりわたしはしっかりと保身しているのだ。ああなんと醜い!内も外も、すべてが醜悪だ!!

どうぞこのわたくしめの骨は真珠湾攻撃開始の地より風にのせていただきたい。