2020.06.14(sun)

落ち込んだ過去を、いついつまでも抱えている必要はなくて、それでもまだ言い足りないもやもやが心中を漂っているから、吐き出す。とはいえ、ここでの、これで、ほんとにおしまいにする。反芻するのは美しい、たのしい、よろこばしい、うれしい、そのような感情だけでよいのです。悔しさは、すこし、反芻してよいかもしれませんね。わたしにとっての、エネルギーだから。誰かに心配されたくない、ことはない。いよいよASDや乖離性の診断が下って以降、下ったから、かもしれないが、甘えたい甘やかされたい欲が、わたしはかなり高いので。でもそれは、きちんと背景を知ったうえで、というのはワガママだろうか。世の中には、実は、病院にかかるときにお財布の心配を同時にしなくちゃあいけない人間もいる、といえば主語が大きいかもしれないが、なんらかの体調不良に見舞われ、家計に想いを馳せることなく病院へかかれるのは、わたしにはもう十二分に恵まれている人間に見える。誕生日、あるいは家族が絡むイベント、最近なら母の日や父の日だろうか、それらの行事ごとに祝いごとめいたことを誰も彼もがしているわけではない。そもそも、身近な他者でもないのに何様のおつもりだったのだろう。正しくはある、言われていることに間違いはなく、正しいのかもしれないが、世の中、正しさだけが善いのですか?ルールを守る者のみが、正しいのですか?労働における人間関係なら、モラルハラスメントといってもよいのでは、なんてそれはあまりにも被害者意識が高いかもしれませんが。しかしながら心配して損したといえるのは、すくなくともいわれても居心地が悪くならないのは、身近な他者だけだ。恵まれた人間は、その特別さに気付かないと、ウテナにもそういえばありましたね。もちろん、わたしにも至らないといえそうな部分はある。運良く、たまたまいままでの非労働時の人間関係が運良く良好なときが多かっただけだ。それに、わたしだっていい歳なのだから、いついつまでもパパやママの存在を追っていてはいけない。いけないのか?わからない。でもきっと、あのような強者の、マジョリティのなかでも強者のと、わざわざ分類しますと、そのような層が福祉は税金の無駄だなどとわめけるのでしょう。これはしかしわたしの勝手な想像ですし、想像ではなさそうな発言をここへ載せるのはあまりにも不公平、卑怯というものですから、飲み込んでおくわ。そしてわたしは、ほんとうに、話し合うことで解決したい人間なのだと、それを気付けたのだと、そうね、とらえておきましょう。己の要求が通らなければ即シャットアウト、鎖国、そのような姿勢が、わたし、ほんとうに苦手ね。言葉を尽くしたい欲が強いのね。ああ、すこしは成長したらしいですよ、わたし。世界には、どうしたってわかりあえない言葉の通じない(それは母語が同じか否かのお話ではなく)みなさまがいる。わたしは、だからこそみんなたちや、身近な他者だけの、お気に入りだけの世界にこもるのです。おんもで疲弊した心身を、その方々になだめ癒してもらい、そしてわたしが差し出せるのはよいと感じられる時間。提供者でやってきたわたしなりに、心地よい時間を過ごすお手伝いをしますから、どうぞ飽きがくるまでは甘やかしてほしい。わたしが祈りを向けるのは(この祈りは宗教的なモノというよりは願いに近しいモノのはずです)、ごくごくわずか。なるべく心身ともに、おだやかに、すこやかに、そしてそのように過ごすための、ささやかなお手伝いをわたしが時々でいいからできるといい。お気に入りは、すこしでよいのです。