たとえば朝から午後までだとか、時々数独を眺めたり英語を眺めたり、だらだらと摂食できる頻度があがると胃痛に見舞われる頻度は減る気がする。食欲が枯渇するときも減るようで、しかし迷って迷って選びきれずにイヤになるのは食品に限らないけれど、選択肢が豊富なことはわたしにはデメリットになりやすい。寝起きのひんやりした手先をあたためるついでに火にかけた鍋を、朝からだらだらと食べて、冷えたらまた火にかけに行って、片手にマウス片手にゼリーなんて生活は、でもやっぱりそれはそれで好ましくもある。やりたいことに向けられる領域が増えるから。好奇心のままに、もしも、すべてを好奇心にあずけたら生活なんてしているのは馬鹿らしく、はやく注射一本打てば必要な栄養も水分も補給できるようになってほしい。錠剤を飲み込むのすら、時々惜しくなる。だって視界から本が消えるでしょう?好奇心を満たすだけでよいのだから、映画なんかでよくある水槽に脳味噌が浮かんでいる、あの状態でもよいような気もしますが、もしかすると、この煩わしい、非常に手間のかかる人間のかたちだからこそ、なのかもしれない。積極的に死をのぞまないどころか、生きてみたくなって、思わず混乱した。もう生きてみたいなんて思わないのだろうなんて、嫌っていることのひとつである諦観を、その感情が出てくるということは、どこかで諦めていたということで、肉体のみならず、精神までもが非常に手間のかかる人間ですね、わたしというやつは。そうしなければいけないということはないけれど、多少なりとも許すには何が必要あるいは不要なんだろう。