提供者なのに、どうして、なぜ、本気で人間を駒にしてしまうんだと、わたしだって四六時中誰彼問わず人間がすきですってわけじゃあないのにね。そして提供者なのに、と、その提供者に込めたさまざまは畢竟不正解なのです。そもそも正解が、ただひとつの正解があるわけでもなく、理想を各々がたいせつに、あるいは哲学でもよいですが、守りきれるか否かでありまして、何を良しとするか、物差しは各々違うのでしょうから。たんに酒量が増えたことからの諸々のせいかしら、なぜだか実父に似てきたわねと感じることがちらほらと、本を読むこと、目新しい機械を恐怖ではなく楽しむこと、この姿勢はそうですね、いいえ、わたしには祖母だけです。ハイカラを受け入れる懐の広さ深さ、年齢などの些末な見た目ではなく、手前の心の向きだけを、夢を売ると決めたことを守りきること、守りたいモノは、わたし、なんだったかしら。いけませんよ、なんだったかしらなんて、そこをのぞくと、またむなしくなるんですから。足りなさを埋めるのです。お脳の働きの足りなさ、振る舞いの足りなさ、実際の生活の足りなさ、ほんとはもっと浮遊していたくはあるのですね。その誘惑にわたしは勝てるかしら。