2020.09.06(sun)

前回、うっかり2019と書いてしまって時間感覚の歪みにあらためて気付けたと、意識してわざわざ大仰に言ってみたが、「以前」の生活は遠いどこかの国の、昔々のお話のようで、「以降」がいかにめまぐるしいか、今年は数字の上ではキューカゲツメで、右上の表示もキューカゲツとロクニチメを知らせてくるが、2020という区切りを設けても年明けからすでに数年が経っているような感覚が濃ゆい。毎日はめまぐるしいのにね。一日一日はあっという間で、しかしこのようなわけのわからぬ文章を生成することは無駄ではない。はず。脳味噌がはちきれそうな感覚は、相変わらずはちきれそうだという以外にしっくりくる言葉が見つからない。湯船に頭の先まで浸かる。息を止める。徐々に苦しくなる。そのような状態に、湯船に浸からずとも見舞われるのです。緊張の色が濃厚な場と、そうでない場との差がはげしいですね。それはそれで人間のさまざまが明らかになっている気がして、とても好ましい。矛盾に出会うと息苦しさと未熟さにおそわれる一方で、人間らしさが喜ばしくて、いっそう人間が愛しくなる。人々の営みを眺める、その営みにわたしが含まれぬ謎も、なかなか解けませんね。久々に禁煙が、しっかりと続いている。ようやく自分にも気を配れるようになってきたねと、めずらしい褒められのように感じられて、すこしは成長しているのだろうかと、わたしはやはりわたしが成長していない、もうできないかもしれないことがこわいのです。わたしの可能性を信じてみたい。だからこそ、意識が高いななどという煽りに苛立つのかもしれませんね。可能性があり、そして求められること、労働においてささやかでもわたしが役立つその感覚が、この世界にいなくてもよいのだという孤独を隠してくれる。この世界にいたいのかな。時々わからなくなる、わからなくなって、ふと、離れる、俯瞰視点になりそうな時はいまを意識するのです。洗濯機ががんばっている。布団を干すには曖昧な天気だ。昨日の片付けのおかげで机の上が広い。世界なんて絶対的じゃないのにね。