2020.07.01(wed)

わたしの七月に、本格的な、ほんとうの増税がいよいよ始まるなんて、すこし不吉だわねって、時間は人間たちの営みとは関係ないように過ぎていることを改めて知らされたといえば大仰過ぎるが。わかる、わかるかわからないかわからない、わからない、と、理解が及ぶレベルは三つあるはずで、それは行動にもいえるのかな、と思ったりする。やれる、やれるかやれないかわからない、やれない、などのように。二者択一の、ゼロかヒャクかどちらかしか選ばないあるいは選べない世界からの解放。賢いとは多様な視点を持てることで、かつ、多様な視点の受け入れ体制があることでもあるかもしれない。多様な視点の理解ではなく、受け入れること。同意なきなんとか、って、また肝心の箇所が抜け落ちているつめの甘さを御披露目しつつ、カウンセリングだか傾聴だかの姿勢に、同意することが善なることではない、みたいな記述があったことを、ふと思い出す。保守的なお気持ちから普段の予定(ペース)より、すこしはやめに掃除機をかけ、悪天候を理由に洗濯はやめようを前言撤回しながら読むべきあるいは目を通すべきモノをなぞり、気付いたわたしの変化に、わたしもすこし嬉しい。一人でやるとは、以前の手前が感じている以上の重みがあるんだぞと、なにげなく保守的なお気持ちからの諸々が、もしかするとそのような変化かくるモノかもしれなくて、すこし嬉しい。ささやかでも、変化があること。興奮しますね。知らないモノを見聞きしたあの興奮にかなり近しい高揚が、ある。わたしが恐れるのは、たとえそれがわたし自身のためだったとしても、畢竟他者のためではないとしても、他者へ想いを馳せられなくなること。そして、わたしのあらゆるモノが止まってしまうこと。もう成長しなくてよいだとか、やはり生きていても仕様がないのだとか、またあの死がキラキラと、魅力的に映ってしまうことだ。しまう?しまうこと?生より死が尊いなんて、誰が言ったのだ。悪夢はこの現実かもしれないのに。甘美な心地よさを死こそがもたらしてくれるかもしれない、その可能性をどうして、いま、わたしは捨てたのだろう。知らないくせに。死ぬことが如何様なことか、知らないくせに、生よりも良いだなんて、ああ、死の匂い、そうですね、わたしはどうしてもわたしの生を肯定しかねる。それがいつか他者の生にまで、それも身近な他者へおよんでしまうのが、おそろしい。身近な他者、といってしまうあたり、大規模なモノはたんなる情報でしかないのですね、わたしにとっても。死がいまきらびやかに映る、雨と風の強いあのお留守番、実母が珍しく長い時間帰らなかったお留守番の日と似ている。久々に引き出された記憶だ。実際のことかどうか、もうわからない。このようにお話しろと、対外向けのストーリーがどれで、どれが実際のストーリーなのか。あのお留守番の日にビデオテープが流し続けていたのはもののけ姫。美しいからこそ、死んでみたい。死ぬために、美しくなりたい。ああ、離脱しませう。お天気のせいに、してしまいましょう。