タイトル欄と本文を書く四角とのあいだに、時々「このテーマで書きませんか」みたいな文句が登場して、今日はここへ、この感情の吐き出し場へどろどろと流しにきたはずの何かがあったのに、忘れられないあの日が云々に引っぱられてしまった。忘れられない、というよりは、ふとした瞬間に再生される。留めている瞬間が多いのかもしれない。そうだ。最近は頻繁に、かなり意識して、もう「脅かすモノ」はないのだと、自分で自分に注意を促さなくてもよくなった。過呼吸から戻るときみたいに、丁寧にわたしの居場所は今現在なのですよと教えなくて済む機会が減ってきた。スーパーで長い列に並んでしまっても、もうあとは帰るだけ。予定はないんだから、それに混む時間帯に来ちゃったのかもしれないよなあと、のんびり並んでいればいい。あとどれくらいかかりそうだとか、そんな連絡をすばやくしなくてもよい。よくも悪くもわたしだけの世界がかたまってきた。でもだからといって、はたしてわたしだけが被害者なんだろうかと疑問はある。これにおいては加害はあちらで被害はこちらで、しかし違う場面でもそうだったのかな、などと、これからのために過去を眺めてみるときがある。あの数年間に関しては、もうずいぶんと、過去にひたっての「追体験」をしていない。加害と被害。時勢の話題にあーだこーだではなく、人間、そんなにキッチリ役割がわかれているものかしら。どこかに加害なわたしがいて、どこかには被害なわたしがいて、どちらもあるし、どちらでもない何かがもしかしたらあるかもしれない。人間は多面体だからと、この表現をとりながら脳内に浮かぶのは、折り紙でつくったあのくす玉。星のかたちのオーナメント、ともいえそう。小さな三角のパーツをこしらえて、それらを寄せ集めて、とんがりのあるくす玉ができるの。貴重な金色やキラキラや和柄の折り紙はよく見えるところに使ってなどと細かなこだわりを入れたがったのが祖母なのか、わたしなのか、もう覚えていない。きっと年々美化されているのだろう。でもいまこのわたしがつらくなったら逃げる場所として、実際にあったことではなくても大事にしておくの。大事にしていても、誰も怒らないし。