2020.08.22(sat)

脳味噌の「つっかえ」を、ようやく吐き出せる余裕をとれて、それだけで頭の重みがやわらぐ。わたしはわたしの内側の諸々を抑えきれないし、言葉に、みんなたちの言葉へするのにはまだ難儀するし、のびのびと呼吸をできる場所が欠かせないのですね。自動筆記と冠することで些細な誤りに対する逃げをつくる。なにから?なにへの?みんなたちの言葉に翻訳なんてできなくてもかまわないと思っていたこともある、でもわたしは他者に助けを乞い、お手伝いしてほしいとお願いし、そのときにうまく伝えられなきゃいけなくて、うまく、というのはなるべくわたしが求めていることを正確にお伝えしたくて、伝えられないと己の未熟さが嫌になる。せっかく聞こうとしてくださったのに、悪いのはあなたではないのに、謝らないでほしいというのはしかしワガママかもしれませんね。誰かの心は自由であってほしい、わたしが制限されたくないから。好奇心を頼りにふらり、ふらりと探索したいから、わたしも誰かの気ままさを喜びたい。他者が第一と言って、そのじつ、己のためだったのだと気付くこの気配は知っている。知っている何かに似ている。わたしは被害者ではなく加害者だったのです、これは比喩です。傷つけられたと被った側の素振りをすることで、あるいはもっと直接的な方法で、わたしは傷付けていたんですね。それも過去のこと。が、過去は変えられなくてもその過去を活かすことはできないかしら。今ここは点かもしれないけれど、おそらくは突如発生した点ではなく、今ここ以外の点もずらり並んでいて、今ここの点がなんだかよく見えるだけで、カメラを引けば線なのだろうか。ああ、インプットが足りませんね、ますます言葉が貧弱になっている。日々微々進歩を実行するには日々微々吸収せねばです。そうして、やりたい、なりたい、発信していたら叶っていたことが多発する人生であることを忘れずに、もうすこし、手間にも根気よく待ちの姿勢をしてあげたい。わたしはわたしと近すぎるかもしれない、観察者にもなりたいですね。