この言葉がはたして言いたいことを表してくれる言葉なのだろうかと、国語のやり直しを始めてからこっち気になって気になって、実戦をつまないとコミュニケーションなんて上手くなれないのに、おどおどしてしまってダメですね。役割というかロールプレイというか、こういう場ではこういうわたしがおそらく求められているのだろうと、ハマってしまえばそこまでではないけれど、でもそれもその場限りで、振り返ったときにひとつひとつの言葉の正確さが気になってしまう。そこまで他の存在ににかまっている人間なんて、きっとほとんどいないのにね。気になるのはしかし、今までがいかに雑に扱っていたかという証左なのでは。こういう言葉を使っていますが、これはこういう意味でして等々、註釈に頼りっきり。何気なく放たれる言葉に、いちいち囚われるから、放つ側になった時も気になるのかな。

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働き始めとか二十代前半とかまでは、パートナーがいるんだと発言をすれば遊んでくれなくなる「男性」に、パートナーと言ったって、異性とは限らないじゃないかなどと、逐一説明をしていたけれど、ここ数年は考えを改めて、それもまた暴力のひとつで、異性愛のみがこの世界のすべてではないんだと知らずにいるのもその人の自由というか、必ずしもそうするのだと選んだわけではないかもしれないが、だからと言って押し付けるのも良くないのかなと、去る者追わずの追わずが頻繁になってきた。人間に対して。このことに限らず、積極的にこだわりを持たなくなってきた。人間全体は相も変わらず愛しくて、そしてその人間のなかになぜかわたしが含まれていない感覚も健在だけれど、個々の人間に対しては、なんだか、もういいかなと。諦めなのかな。

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すうっと、労働を離れると、ゆるやかに現実が薄らいでいく。現実にすこし用があって、たとえばゼリーを買いに寄ったり労働の絡まない会話をしたり、それらはすこしお邪魔しているだけ。誰かのお話を聞くぶんには、そこまでではないが。調子が悪いのかな。なんだろうね、これは。もう人生の半分近くどころかそれ以上を服薬と通院に捧げて、それでもまだこんなになるって、馬鹿らしいね。