熱中しやすい気質を持っている自覚はあって、何か目新しくそれでいて強烈に惹かれるモノに出会ったときは『鏡地獄』を思い出すようにしている。江戸川乱歩をミステリーの達人ではなく、やや理屈っぽい川端康成としてまず認識したのもあって、あれは真に人間の闇に迫っている気もして、ひじょうに好んでいる作品のひとつ。長編よりも短編というには長いようにおもえるけれど、ちまちました作品がすきなのかもしれない。川端康成は『雪国』の導入の妙には心底感嘆するが、好きかどうかだけを軸にすれば『片腕』がよい。梶井基次郎ならば『Kの昇天或はKの溺死』、横光利一の『機械』もすきだ。わたしの酔いにはいくつかの方向があって、そのひとつに、音読したくなる方向があるのですが、『機械』は特に音読したんじゃないかしら。あのパズルのような不気味な文字の羅列は音にすればもうたまらなく興奮する。おどろおどろしさをちゃちな脳味噌の持ち主であるわたしの口が紡いでいて、音読というのはいっとき、自分がひじょうな文才の持ち主にでもなったかのような錯覚を抱けるからすきなのです。ここ数日は、その言葉のおもしろさをたのしむために、活舌が云々ではなく、言葉遊びの極みとして外郎売をぽつぽつと口ずさんでいるのですが、こういうのがほんとうにわたしには刺さるのだなあ。地口や都都逸なんかも、そこへ込められたさまざまの感情を勝手に読み取って泣いたり笑ったりするのもおもしろいけれど、音のつらなりをおもしろがるのも、またよい。ああ、今日はあまり考えずに話せている。キーボードを叩いて言葉を出すこれもわたしにはおしゃべりなのです。