2022.03.11(fri)

死に損なったな、という瞬間はいくつもあって、そのうちのひとつが阪神淡路の震災で、それもあって今日という日は当事者のように心がぎゅっとなりますね。ように、ですよ。当然ながら、あくまでも。当事者にしかわからないことなんていっぱいある。当事者にもわからないことも、きっとある。逐一意味や価値を求めるのが無意味だというのは、少なくともわたくしが無意味だと感じる理由にはそのような気持ちもあるのかもしれませんね。この人生で癌に罹患したらちょっとかわいそうすぎるでしょ、なんて我ながらあわれみかけたり、神さまにクレームをお届けしようかとなったり、するけれども結局自暴自棄的な不摂生もあるのです。半分くらいは。もしかしたら全部かもしれない。何かを憎んだり何かに対して怒ったりすれば解決または解消するのでしたらいくらでも憎しみや怒りを持つよ、そりゃあ。けれど、解決や解消に必要なのって、もっと落ち着いた心構えじゃないかしら。それに負の感情で動くって、なんだか疲れちゃうし。諦念なのかもしれませんが、もうわたしはなるべくおだやかに過ごしたい。甘ったれた考えなんだろうなあ。まあせめて憎しみや怒りなど負の感情をわざわざ叩き起こさないでいたい。とっくに手は汚れているというのに、いつまでも潔白潔癖であろうとして、わたしはずるいね。