電子の海へ放流する手段としてあまりにもついったはお手軽すぎる。ネガティブ寄りの、感情の加速にも加担する気配もお高め。常から本社と距離、物理的な距離があるのに都度お伺いをたてるのはいかがなものだろうかと不思議であったし、なにより自身を律するためにも尻拭い的な責任込みで判断の"軸"をいくつかいただけた。もちろん保険としての他者との複数人体制ではあるけれど。非常の場面において、ある人の根っこというか芯というか、そのようなモノがあるならば、非常においてそれに対する解像度が高まるのはわたしにとってはいまのところ大きな収穫だ。自己責任精神があまりにも強い。これを他者へ強制し始めたらおしまいだとは気付いていたが、自身に対してその精神に依った振る舞いは強制しているのと大差ない、という場合もあるらしい。ままならぬモノもあるのだと、諦めだか割り切りだか、とかくそのように一旦軽い脳死状態に入れることもまた生きたさのあらわれなのでしょうね。手が汚れることをでもすくなくとおそれたくはない。潔癖なんて、きっと存在しないのです。

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自己責任というか、このわたしがみずから選択したのだから、という意味ではわたしごときが"軸"をいただけるこの場所は、わたしのズルさによるものだ。実力あるいは技術にとぼしく、にもかかわらずある程度自尊心を満たしたいならば、たとえば女性の管理職がすくないだとか、特例になりやすい場所をわざわざ選んだのでしょうね。いま思うと。なんだ、わたしもイッチョマエにプライド、高いじゃんね。