2022.04.24(sun)

暑い。寒い。空腹。満腹。言葉であらわすのがむつかしい感覚はさまざまあるけれど、この四つの難度がとても高い、という感覚が長らくある。むつかしいからといって投げ出さず、ではどうしてむつかしく感じるのか、すこし落ち着いて観察を試みると多少はわたしのことがわかる。この、わかる/わからないという感覚もむつかしい。どこまで理解が進んだ状態がわかるなのか、あるいは進んでいない状態がわからないのか、これを掘り出すとはてしなく"とじこもってしまう"からやらないでおく。はてしなく"とじこもってしまう"んだな、というのはその状態を何度か繰り返してきたからで、そうして時間の経過とともに(わたしによる)わたしへの理解が進めばいいなあと希望を抱いてもいる。話が枝道へ入った。この「枝道へ入る」という言い回しは最近読んだ本に出てきて、以降、とても気に入っている。いかにも考えが複雑にこんがらがっていて、迷い戸惑っている感じがよくあらわせる気がするから。閑話休題。汗がじわっとにじんだり、おでこをつたったり、手がかじかんでペンが持てなくなったり、そこまでの状態になれば、ああ暑いのだな寒いのだなと気付ける。そしてたぶん調子がよろしくないから感じにくいのかもしれない。いまの状態を言葉で表し難い、となっているときは、世界が遠くなっているときで、それはつまり調子が悪い証拠なのだと追っていくのもよいかもしれない。世界が遠いというのがいまのところ、かなりしっくりきている。脳味噌がやかましいときの、あの感覚を通じやすい言葉にするならば、世界が遠くなってしまう。紗幕のこちらとあちらに絶たれてしまって、見えてはいるのに全然当事者ではないような、なくなってしまったような感じ。脳味噌がやかましいとはどういうことなんだろうと、これも分解できるとわたしへの理解が深まるかもしれませんね。本を楽しく読むためにいろんな経験をするのだとおっしゃった方がいるけれど、わたしはそこへ加えて、わたしを理解するために本を読んでいるのかもしれない。ほかにもいろいろある。現実からの逃避でもある、わたしを否定することのない聞き手でもある(読んでいるのはわたしなのだから本が聞き手というのはあべこべな気がするけれど聞いてもらっているような感じがとても強い)、好奇心もたっぷり満たせる。文字が逃げてゆかなくなって、それくらいには精神が元気さを取り戻しつつあって、棚にお勉強のためだけではない本が増えてきた。増えていることがとてもうれしい。ちょうどこれを書いているパソコンから視線を向こうへ、モニタの向こうへやるとずらっと並んでいる背表紙を見渡せる配置に変えた。よい眺めだ。この配置は労働モードの時にも活躍していて、ヒラメキでなんとかかんとかするような作業の日、目についたタイトルや文字からなにがしかが得られたりもする。しかし目がうるさいと嫌気がさすときもある。扉をつけて完全に閉じるよりは布をかぶせて、覆いを上げたり下げたりするのがよさそうだ。それにしても数日前の、あの脳味噌のやかましさはなんだったんだろう。今現在も、えらく文字が流れてくるからやかましいことに変わりはないのだけれど、その文字というか考えというか、それらを指先へ伝えてキーボードを叩いて、自動筆記の真似事をする程度には静かなのです。かつ、精神も凪いでいる。いやな静けさではなく、それなりの心地よさもある。世界から外れてもいない。洗濯が終了した合図の、電子音をきちんと拾える程度には戻ってこれた。離人感などと呼ばれるモノともまた違う気がする。気がするだけでそうかもしれない。