2021.09.22(wed)

最愛の友人をAIで再現できる、それを遺族が喜んでいたとしたらあなたは最愛の友人をAIで再現することを望むかどうか、という話題がここしばらく繰り返される。わたしの脳味噌のなかで。AIの"程度"によるけれど、遺族の気持ちがまず第一だから何も言わない言えない。それでも本心はやっぱり望まない。だって今度はわたしが置いていく番になるからと、その話題に触れてすぐはそんなような気持ちだった。AIの程度以外にも、最愛の友人が文字通りの友人かどうかも問題かもしれないよなあとか、物事は実際に起こってみないとわからないことばかりだからもしかしたらわたしは「自分だけの友人」を再現するかもなあとか(意外と執着深い部分を持っている自覚はあるから)とか。でもやっぱり置いていく側になりたくない気持ちがとても強い。正確にはたぶんきっとそのAIの機能を停止するのがこの手で殺すのが怖いだけ。かもしれない。置いていく側になりたくないのも臆病だからだ。わたしがいなくなったらちゃんと悲しんでほしい、落ち込んでほしい、眠れなくて食べられなくてそれでも生活は普通に流れるからなんとかしなくちゃなあとか、わたしが味わった苦痛を味わってくれないのがさみしい。けろっと、なんてことない出来事でしたって、平気な顔をされるのがこわい。そういう気持ちの悪い感情が嫌いだから、最初から欲しがらないでいるのもある。多くを望まない、足るを知る者は……なんて立派な考えはないのに。天気の話題と同じくらい話のキッカケに第一印象のことを話されると、対面している相手に申し訳ないやら腹立たしいやらよくわからない虚しさにおそわれる。でも、もういちいち否定はしない。曖昧に本心に反して肯定して、これはキッカケに過ぎないのだと言い聞かせて、そうして抱えきれないくらいたまって、吐き出したくなったらここへ来ればいいだけ。育ちの悪さが露呈しないようにペンを持つだけでも「正しい持ち方」であるように努めてきたことや、味わいたくなかった苦労を様々の経験などとキラキラした言葉で勝手にまとめてくることや、そんなのにいちいち反応しない。益がないから。努力してます苦労してきたんですなどというアピールをしたくないのももちろんある。なんてことないですよーって、涼しい顔をして振る舞っておくのがいかに格好良いかも知ってしまったし。十代二十代の、働き始めならがむしゃらさがよかったんだろうけれど、まだ全然足りないところがあるとはいえ、もうそんなジタバタしていたら不細工だ。それにパートナーにかっこいいと言われる自分でありたいしなんて気持ちが加速する褒められはすこし厄介ですね。気を緩めるのがよりむつかしくなる。むつかしいな、いろんなことが。

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勝手なイメージを持たれるのと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、わたしだって誰かに理想の印象を押し付けてさえいるかもしれないのに、こうやってすぐ受け身な被害者ぶるのがほんとうによくない癖だ。