2022.06.03(fri)

また、タイトル欄と本文を書くための空白とのあいだにある、お題などという公式?からのお知らせに引きずられてしまった。まずはそちらから。人生で一番高い買い物はなんといっても通院費だろう。精神科に通っていない時期を通っている時期が上回って数年、以前のように強く後悔したり違った人生を欲したり、変えようのない過去にくよくよとすることは以前よりは強く出ないけれど、それでも費やしたお金や時間を別なことに充てられたかもしれない可能性を想像したくなる。最近読んだ小説の影響のもとの想像をしてみれば、精神科に一切通うことなく生きるこのわたしはどこか別の世界にいて、それを観察?観測?できたらいいのになあと思う。その小説はタイトルがずいぶんとカジュアルになっていて、だから虚をつかれたというか、よい裏切りにあったというか、虚数の庭から改題した『みすてぃっく・あい』だ。全国展開の古本屋さんで見つけた。といえば本との出会いとしては運命的でよいのだけれどその実、オンラインで購入した。在庫が復活すればメールが届くように設定して、それで『紫色のクオリア』も他には買って、「わたし好みのライトノベル」が読みたい欲がすこし満たされた。「わたし好みのライトノベル」は江波光則もそのひとつで、しかし未だにライトノベルという区分はよくわからない。アニメ調のイラストと、かなり砕けた時には特異を極めた言葉遣いが散見される小説、程度にとらえているところがわたしにはある。言葉遊び、地口などがすきなわたしには新たな言葉を知るために読んでいるところもあるし。閑話休題。ここへ来ようとしたキッカケの諸々は、巡らせていたことは、それはダサいからやめておこうという具合の物差しをもわたしは持っていそうだ。何を以てダサいかダサくない(カッコイイ)かを峻別しているのかは明瞭にならないけれど、たとえば最近だと、たしかにこの年齢で両親にこだわるのはダサい、同い年でひとりっきりで親の役割をつとめている人間もいるのだし。もっとオトナらしく、しゃんとしていよう。こういう気付きがあった。オトナ、というのも曖昧な言葉だ。年齢だけでどうこう言えるモノではなさそうな気配はある。諦めることが茶飯事になればオトナなのかなのかもしれない。自分以外の存在に計らって諦めることもあるだろうし、思うように身体が動かないことが増えて諦めることもあるだろうし、そうして諦めることも選択のいち種類なのだと、後ろ向きな考えとばかりはいえないぞと、うーん。これはまだうまく言葉にならないから保留かな。何もかもが思い通りにならないことが、言葉だけではなく、根っこからわかって、それで諦められるようになっているのかもしれない。この「わかる」というのも不思議で、ああそうか、いま岡潔のエッセイを読んでいるからだ。なんだか普段の巡らせとはすこし違った雰囲気を感じていたのです。今年は映画も積極的に見ようという構えをもっているのだけれど、上半期下半期でわけて、一度まとめてみようと思っている。観終わってすぐ、ひと言ふた言、書き留めている感想らしきモノをととのえたい気持ちもあるし。しかし感想というのは、きっと新鮮なのがよいのでしょうね。あまり手を入れないようにしたいと思うけれど、整頓癖(へき)が強く出るかもしれない。どうなるかわからない、という状態をすこしずつ楽しめるようになってきている。すこしずつ、変化はすこしずつなのだと受け入れること。眠れなくても目を閉じれば脳は休まるのだということ。ここふた月ほど、いや、手術以降かもしれない。念仏のように唱えるのはこのあたり。