2020.02.08(sat)

今回の火傷痕の、特にいま、この今現在の治りかけの色味が爬虫類だかそこあたりだかの眼球を思わせて綺麗だと言ったら、やっぱりお前は頭がおかしいと、でもそのやっぱりにはあまりネガティブな色がなく、河原町のキャッチコピーの変わらなさに近いような、すこし喜ばしいともいえそうな気持ちになれた。変わる町変わらない町河原町。まち?街?町、でよかったかしら。正確性よりも、いますこし記憶を頼りたい気分だ。このわたしの記憶を、あるいは脳味噌を。キッカケというかバッドスイッチのスイッチというか、それさえあれば自分でも驚くほど過去の、過去だと感ぜられるモノが思い出されて、しかしそれが真実かどうかはわからないし問題ではないはずでしょう。何を信じるか。何を信じて救済されたいか。救済される保証があると信じたいのか。あることを信じないわたしだとしたらではそのあることを担保?保証?するのはいったい誰だ。他者に預けてしまいたくはない、預けてよいと、預けてもかまわないモノであればそれはそれで、しかしこのわたしの幸福はわたしのみに預けられたモノのはずで、ならば幸福とはどういうものか、索引から引いたそこに書かれている意味を決めるのもわたしだ。いったいどこまでわたしはわたしの采配でやれるのでしょう。どこかに、やはり、神さまがあるのです。してほしいならまずやる。あるいは、されたのならやる。交換なのです。自傷的な飲酒も摂食も血肉になるのはそうではない飲酒や摂食と変わらない。すべてが繋がっているはずに思えて、しかしすべてとはどこから、あるいはどこまでですか。他愛ない、せんない、言葉遊びよ。