相変わらず、長生きをしたいという気持ちは強くない。かといって死にたいわけではなく、むしろ最近、半年くらい前だろうか。もうすこし以前からの気もする。死ななくてはいけない(だというのになぜ生きているのだ)。そのような気持ちに見舞われる。長生きをしたいかどうかと、これはたぶん別の問題だと捉えてよいのだろう問題があって、健康になりたいとは思っている。健康なわたし、というものがあるならば、健康なわたしをわたしはのぞんでいる。肉体的に、もしくは精神的に、あるいはどちらもが同時に不調となると、他者への「あたり」が厳しくなる。それはわたしが最も嫌っている姿勢だ。優しくありたいわけではない、優しさが誰かを殺す場合もあるからで、優しくありたいというよりは波風を無暗に立たせたくない、という表現が適切かもしれない。感覚を言葉へ翻訳することも相変わらずむつかしいなあ。肉体的にも精神的にもなるべく余裕をこしらえて、自分の不機嫌さや不満や、そういったものを誰かに解決してくれなどと要請したくないというのもある。わたしの問題はわたしにしか解決できない。外の世界や他者はヒントというか、提案や、こういう乗り切り方もあるのだとヒントに至れるような具体例を提示してくれる等々、助言を与えてはくれるけれど、そもそも解決したいのかしたくないのかを決めるのもわたしだ。こんなふうな考えを手放さずにいるから相談や甘えることが苦手なままなのだろうか。そしてこの苦手は克服するのがよさそうなたぐいのモノかどうかもわからない。あれから5年経った、正確には今夏で5年。毎年手続きがあるために数えてしまうのだけれど、数えたところで当時のしんどさが再生されはしない。ずいぶんと元気になりつつある。眠りからふと醒めて傍らに立って、見下ろして、何かこちらへ攻撃してくるのではないかと、こうして言葉にすれないかにも幻覚というモノが起きることもゼロといってよい。スーパーなどで長蛇の列に並んでいても焦りの気持ちはほとんど沸いてこない。たとえば通院と労働とがみっちり詰め込まれた一日の終わり頃には、おうちへ帰りたいなあと我が家が恋しくなる。オンボロオバケアパートだって十分我が家だもの。かといって、加害者ばかりが悪かったとは未だに思えない。わたしにも非があって、引き金を引かせてしまった(これは実際のことではなく比喩です)のだろうけれど、たとえ殺したいほど腹が立ったり憎しみを抱いたりしても行動に移してしまうのは「ズレ過ぎている」のだろうという感覚が芽生えてきている。心のなかは自由だから、そこでおさめておけばよい。おさめずにいるのはちょっと……というここはまだ曖昧な表現しかとれない。これだという言葉をこのことに対しても見つけたいですね。