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イマイチなとき、不調とはいえ起きていられるしゴミ捨てへ行ったりなどなど、それなりに動けて、労働的なことも資料を読んだりそういえばあのお問い合わせはああじゃなかったかなと調べものをしたりもできる、それなりに動ける不調のときは、ときこそ台所に立とう、ちゃんとしたごはんをつくろうという気持ちになる。これは結構以前からだった気がするが、こうして言葉にできるまでに時間がかかった。ちゃんとしたごはんという曖昧なモノを求めるのは身も心も元気になろうとしている証拠かもしれない、あるいは予兆とか予感とかそういうやつ。元気というのもなかなかに曖昧な状態だ。ただどうやら他者とのかかわりを積極的に絶とうとするのが、わたしにとっての元気ではない状態なのではないかと踏んでいる。ぱっとまず思いつく理由は「あたり」がきつくなるから。きつくならないよう、配慮できないから。内科的な不調にせよ、精神科的な不調にせよ、元気ではないなという感じが濃ゆくなって、全身?全体?へ行き渡ると、ああやめておこうとなる。「あたり」をきつくしたくないのは傷つけたくないからなのでしょうが、傷つけたくないというのはおそらく、傷つけた自分というものが嫌なんでしょうね。他者への気配りの中身は自分のためだ。一般的にどうかは知らない。ここは、この僻地はいつだってわたしのケースのことしか書かれていない。ほんとうにそうかな?いつだって、なのだろうか。ああ、もしかしたら精神的な潔癖のケが強まるのも元気ではない、不調である証拠かもしれませんね。元気になりたいという気持ちの意味はどこへ行きたいということなんだろう。元気という状態が明瞭でないのに、元気になりたいなんて、ゴールを把握していないみたいでやだな。