今日は食べ過ぎたのだから向こう数日間、二日や三日ほど、食べるのを控えようあるいは積極的に徒歩移動をしようなどと気を付ければ体重の増減はなく、むしろ繁忙期であれば減、大幅に減ることもあったが、それも過去になった。三十代以降、食べたぶんがしっかりと醜い肉体を形成するパーツとして役立っている。一方で、お手入れの際に鏡越しに見る太ももやお腹、いかにも中年といっただらしのなさを感慨深く感じる。感慨深い、なんていうのは気取りすぎた表現だけれど。未だにわたしはわたしがこの年齢のわたしとして生きていることが不思議でならない。たとえば日付のうえでは数か月前のことを何年も前の出来事のように感じるといった具合に、実際以上に長く生きているように感じる。かと思えば今もまだ二十半ば頃の、じたばたと慌ただしい振る舞いを恥じることなく、ありていにいえば泥臭くやっていた頃のわたしのままのようにも感じる。心理学とくくられる範囲は以前より興味があって、以上のようなこともあり、最近は特別に時間のことが気になる。人間にとって時間はなんなんだろう、時間はなんのためにつくられて、その当初の目論見通りの働きをしているのか、もしや生きるうえで障害となってはいないか等々。問いを重ねる姿勢をわたしはハイデッガーによって知ったと思っているのだけれど、かといってハイデッガーをきちんと読めたうえでの所感ではない。今以上に日本語が読むにせよ、書くにせよ、不自由だった頃に受け取った、漠とした雰囲気がよかった。それだけ。頼りない感覚に因っているだけ。たぶん今読んだら、読み切れないと思う。正確に読まねば、という意識がずいぶん強くなってしまったから。ハイデッガーに限らず、わかりやすくいえば岩波文庫の青色なども同じだろう。ハイデッガーを読んで受けた雰囲気はぼんやりとしているにも拘らず鮮明だ。後世に、良くも悪くも残る偉大な人物でさえ問いを重ねるのかと、断言しきらない姿勢に感銘を受けたのだった。きっとあの頃は大人なんて何にもわかってくれないのだと、反抗する気持ちが強かったのだろう。そうした積み重ねのうえに今現在のわたしは立っているのだろうか。そこまで地続きな存在なのか、あるいは何かをキッカケに細かにリセットされているのだとしたら?