「あれ」以来、かなりの頻度で信じるとはどういうことなんだろうと巡らせている。信じる行為なのか、信じようとして思考の方向とでもいうような何かが路線を変更するのか、そのあたりの区別はつかなくて、そもそも区別がつくようなモノなのかどうかもわからない。信じるという言葉で表されているのは行為なのでしょうか。それとも、もっと、抽象度の高い何かなんだろうか。抽象度の高い何か、を、抽象度の高い何かとしかわたしが表せられない以上はわからない気もする。ここまでの数行、イチニサンシゴ、六行ほどだろうか。久々に似非ではない自動筆記の気配が高かった。指が動きたいように任せて、それがまずあって、頭、脳味噌のどこかしらで燻っていたり煮凝っていた何かを指に伝えているのだ。そういった感覚よりもはるかに強く、まずもって指がキーボドの上を動き回っていた。わたしにとっての自動筆記はそういうものに、限りなく近い。アンドレブルトンと同じ時代に生きられたとしたら、その時代のわたしはどのように自動筆記を定義したのだろうか。定義、なんて大仰ではまったくないんだけれど。何かしらをわたしはどのように把握するのか。把握すると決めるのか。そこへばかり意識が向けられる、そういった状態を自閉的と表すのかもしれない。