2022.08.21(sun)

どういった変化なのかはわからないままで、けれど変化があったなと感ずるのはやはり手術以降だ。そういえば踊りで食べていくことを諦めざるを得ない怪我による手術も変化だった。その変化以降に受け入れたモノでなんとか暮らしているのだから。閑話休題。変化、といってよいのかもじつはわからない。慣れただけかもしれないが、はっきりと妬み厭味僻みといえる何かを向けれられてもすぐには乱れたりしない。わたしの内側が。こうやってああだこうだともがいている姿はわたしと大差ない、というわけではない。いやそれも少しはあるのだろうか。ああだこうだといっているこの人間だって意図せず臥せることもあるだろう、なにより結局最後は死んでしまうのだ。だっておそらくまだ不死身でいられる技術、医療的な施しはないはずだから。死を避けられないのに、時間は有限なのに、それなのにこんなことをしてなどと可哀そうに思ってしまうのは、きっと心根がひねくれているせいもある。どこまでいっても性格が悪いなあ。堂々と開き直ることはたぶんないはずだが、どうしようもない性格の自分と折り合いをつけたり、ままならない精神や肉体とすこしでもおだやかに付き合おうと努めたり、そうしてひとりの時間を満喫することもあれば、外側の、うまく付き合っていきたいなあとか、単純に居心地がよい、この心地よさはとても手触りのよいタオルケットを抱き締めていると落ち着く、あの感じと多分同じだ。そのような心持でいられる人間と過ごす時間はずっと大切なのに、なんて結局わたしも嫉妬を向ける人間に気を向けているあたり大差ない。