むしろ食べ物、食材としての食べ物も食材に加工や調理をほどこして出来上がった料理としての食べ物も、記号として扱わなければやっていけないというような世界に馴染み深いわたしにとって"くだんのあれ"はなんだか遠い世界を垣間見ちゃったなあという、それだけに過ぎない。とてもとても雑に、乱暴に区分けするならば、抽象度の高い物事を扱うのが得意な人間の世界と、具体的な、あるいは生活に即した物事を扱うのが得意な人間の世界とがあって、それぞれ方法は違うけれど、世界を支えていることに変わりはなく、どちらも支えとして欠かせないんじゃないか、という感じがある。もちろんこのふたつ以外にも様々あるでしょうし、ふたつの狭間とでもいうような世界もあるのでしょう。わたしが知らないだけだ。それぞれの世界に分かれているのかもしれなくて、それはでもたぶん区別とか差別とかいうものとは違う気がする。わたしが不得手なことが得意な人間がいる。わたしが不得手なことが得意な人間が苦手だと感じている何かがある。その何かが、偶然にもわたしにとっては得意分野だった。補完し合うのが人間じゃないかしらなんていうと、宗教的に過ぎるかもしれないけれど、まったく均された平等な状態こそ異常だと感じてしまう。わたしが知らないだけで、一から百まで、何もかもひとりっきりでやれる人間もいるのかもしれない。でもそういう人間が多数派だとはどうしても思えなくて、欠けた部分を補ったり、欠けているのとは逆に過剰な部分をやわらげたり、人間が関わって生きているってそういうことじゃないのかなあと思ったりするのです。わたしにはしんどく感じるニュースを冷静に判断できる人間もいて、そのような冷静をたもてる人間にお任せして、わたしはわたしがしんどくならないような自衛につとめるのです。役割分担。適所にて生存する。そんな言葉が巡り続けている。

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異常、ではなく。不自然といえばよかったかもしれない。