十一月は、いや、この秋はなんだかぼんやりと、いっそう惰性的に過ごしていた気がする。夏から秋の変わり目に起きやすい精神的な落下からなんだかまだ浮上しきれていないような感じがある。しきれていないなどと厳密さに注目しているあたり、不調に傾いている証じゃあないかしら。たとえば婚活まっさかりな人間の話を聞くことはわたしにとって、知らない世界をちょいと覗き見る感覚が本を読むのと大差なくて、それでまあおもしろいなあと聞いてしまう。好奇心がそもそも旺盛な自覚もあって、客観的にもそのようだから、上手とまでいかなくても話しやすい何かがあるのかもしれない。労働においても非労働においても相談を持ち掛けられる機会が多い、すばらしいアドバイスの言葉を持ち合わせているわけでもないのに。もしかすると、サービスの良し悪しを決めるのはお客様であるのと近しいモノで、相談役にふさわしいかどうかはわたしが決めることではないのかもしれないと、以前よりも意識して、やってくるあれやこれやの話に耳を傾けていると、ほんとうにたのしい。ああ人間が生きているなあとか、美しい営みだなあとか、やっぱりまるでわたしは人間ではない、違うどこかから見ている感じがやっぱりある。疎外感のような寂しさはないから改善すべきなんらかではないのだけれど、ああ、やっぱりあるのだなあと思う。今宵は、どうして平等でないのなどという嘆きがえらく尾を引いている。平等があると信じられるのだなあと感心した。きっと口にすれば皮肉になりそうだから、きちんと引っ込められたあたり、少々の成長があるんじゃないかしら。平等。平等ねえ。あるとすれば、おそろしいモノに思えるのはSF小説の読み過ぎなのかな。それぞれの人間が生きている、生き物であることを消して、均して、ひとつにまとめちゃって……多分、こういう平等を言っていたのではないのでしょう。引っ込められてほんとうによかった。