今春の出来事からどうだった、こうだった、それ以降は以前と違って云々とするのは過剰な信仰ともいえて我ながら、歓迎しかねる考えなのだけれど、それでいてなお、今春の出来事は"ふたつめ"の出来事だったのだろうと、信じたくなってしまう。ちなみに"ひとつめ"は腰部の損傷により、踊りで食べることを諦める代わりに……という、今現在にもしっかりと繋がってしまっている、接客業との出会いだろう。出会いだろうと信じている。事実は大切だ。虚実よりも事実が大切だと、なにを当たり前のことをと、なかば呆れながらも信仰により大切に保護し続けている出来事だって同じくらい、重要なんじゃないかと思ったりもする。閑話休題

 この春、2022年の春がやってこようかというときのあれは、わたしの意識が朦朧としていたのもあって有無を言わさない緊急手術が施されて、だからこそ、よりいっそう、ああいよいよ癌が身近になってしまったのだなあと、いくばくかの納得もあった。実際には根気強さを試されるような、精神科、よりカジュアルな表現をとればメンタルクリニックへの通院にも似た、長い付き合いになるだろう不具合ではあったのだけれど。

 その程度の不具合だったのか、と、落ち着いているからそのように捉えられるのだ。当然だろう。すわ癌かと、我が家系や我が身の不摂生とを思い浮かべ、「ギリギリ」を覚悟したあの心持ちが、やはり考え方にも影響を及ぼしたのだろうと、受けとっていしまいたくもなる。視点が狭まったのか、広がったのか。どちらかといえば狭まる方向へ寄ってしまったのでは、どこかしらへの偏りを強化したのではないだろうかと不安や疑念も募る。

 生き残ってしまったわたしは、きっと積極的に死んではいけないのだろう。積極的に死にたいとは思わないなあと、たとえばお酒を飲みながら巡らせるよりまず先に、死んではいけないと思う。思ってしまう。死んではいけない。だから、生きよう。そこまでの前向きさはまだ身につかなくて、しっくりこなくて、でも、死んだら悪いなあという気持ちは強まっている。気がする。これらをたんに、酔ったゆえの戯言としたくない、そのためにも似非ではあるが、ここ、自動筆記はある。いくつかある砦のひとつ、と捉えられればよいですね。

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虚実ってなんなんだよ、となったための追記。

虚事と打とうとしたのだろうと思われる。いま試しに虚事を打とうとしたら一度で変換されず、ゆえに音読みでどうにかしようとしたのだろう。近しい過去の、わたしを振り返るものまた楽しい。わたしはわたしにとって観察対象でもあるのです。