2021.10.24(sun)

例年以上に肌のカサつきがひどく、そういえば春の花粉症のときも肌に症状がよく出て慣れぬ感覚に戸惑っていたなあと振り返る。季節の変わり目恒例行事のような精神の混迷と、そこへくわえて一日が二十四時間以上になってくれる気配がないのならばこちらがなんとかするしかないと起床時間を早めてそうすると一日が午前第一部午前第二部午後あるいは午前午後第一部午後第二部と、ざっくりした時間割が変わったためと、アレルギー由来の諸々以外も影響していそうではある。それにおかしなふうに痩せたり太ったりしたせいでしっくりくる下着がまた減った。精神面がぐちゃぐちゃになるのは数学のおかげでなんとか深みにはまらずに済んでいる。知によって弱さが克服できるかどうかは知りたいことのひとつでもあるから、それを実践できているのはすこし離れて落ち着いて眺める段になると、非常にたのしい。自分を食べさせる活動を労働と呼ぶのならば、ほとんど初めてじゃないかしら。労働からきっちりと距離を置いて、打ち込める何かができたのは。もちろんその余波で注意深さが高まったりなど、よい影響を受け取って携えて労働にあたったりはしているけれど。基本的には問題を解く生徒かつ、その答案をチェックする先生役も自分だから自然、文章や文字列を落とさずよく見る癖がついた。いまかつて雰囲気を味わうだけだった岩波文庫の青などを読めば全然違っているのだろうな。そういう時間を得られるならば休みも悪くないなあとは思える。でもやっぱりそれなりにお財布を満たしてくれて、しっかりと承認欲求をも満足させてくれるのは労働だけだ。理不尽なことだってあるし、情けないかな、いまでも悔しくて泣くときもあるし、よいことばっかりじゃあない。閑話休題。たんに慣れていないだけかもしれないが、やはり他者からよい印象を抱かれるのは困惑する。目上の方からの、あきらかな褒められであれば礼の言葉と、相手によっては精進する旨をサラリと告げれば自然なやりとりにはなるけれど。なっていてほしいし、なっていなかったらどうしよう。わたしに絶望してくれというのが大仰ならば、ガッカリだとか残念だとかでもよい。呆れでもよいか。そんなふうにとらえてくれと願いながら相対するなんて不誠実なのにね。正しくあることもできず、間違わずにいることは困難を極め、であればせめて誠実でいたいのに。わたしにとっての誠実とはなんだろうか。これだという答えがうまく見つからないのだけれど、この疑問を持つときはいつも師からの、それもかなり初期の言葉を思い出す。サービスマンたるもの腹の中に何も抱えるな、それらは全部振る舞いに出るのだから、抱え続けるくらいなら話せみたいな、もうほんとうにあったかもわからない都合のよい記憶に過ぎないかもしれない会話。当時のお店の喫煙所で、あれはきっと貴重な休憩時間だったのに、それでも向き合ってくれた気持ちはやっぱり裏切りたくない。あの方のためだけにやっているわけではないし、すっかりわたしも虜になっていてなんなら労働中毒ではというレベルかもしれないけれど、わたしがたいせつにしたい人間の気持ちは積極的に裏切りたくない。恥じないような姿でいたいのにね。ままならないなあ。