2018.5.6(sun)

家族連れを見るのがあまりにもつらくて、もしかしたら忘れているだけでこういう幸せっぽい時期もあったかもしれないは完全に否定されて、ダメ元で施設の人間に電話した。かわいこちゃんほど、わたしは長く居なかったから忘れられてるだろうな、と思ったのに「(かわいこちゃんの名前)さんと一緒だった〜」と伝えたら覚えてはった。最初は嬉しくて、やむを得ず伝えた以前の職場の人間とインタネッの人間と公的機関以外の人間以外に初めてDVのこととか、実母に言われたわけじゃなくて自分で見つけたやりたいこととか話して、楽しかったのに、やっぱり施設の人間もお仕事だから接しているんだよねとなった。その問題はどこそこに相談してね、そっちの困り事はここね、平日の何時から何時までだから等々、そういうのがほしいんじゃないのに、は、ワガママなのかな。実母も実父も、いつかは変わってくれる丸くなってくれると信じているんだけれど、もう30年近くになったら諦めないとダメなんだなと思ったら悲しいとか虚しいとか、当てはまる言葉もなく、また、すーっと気持ちがまったいらになって、お家に帰っていた。バスタオルが2枚干してあって、そういえばこれを縫ってバスマットにするんだったと縫いながら、踊り手としては中の上から進歩が見られなくなって、アシスタントくらいはこなせていたから時々端役でも舞台に立ちながらアシスタントか、身体が鈍らない程度のレッスンを受けながらお針子さんか、と考えていたのも怪我でダメになった。それは誰が悪いわけでもなく、アシスタントだけでは食べていけないから飲食店のアルバイトもしていて、その時のマネージャーのおかげで長らく接客業に携わることもできて、それはそれで幸せだと受け入れないとなんだよなあ。運ばれた病院で「説明するまでもないかと思いますが、」と見せられたレントゲンは未だに覚えていて、背骨が螺旋階段のように捻れ、骨盤も右が前へ左が後ろへずれて、数日間は痛くて眠れなくて腰に注射を打ったけれど、この世で一等痛いのは腰に注射だと思う。もっと強く頚椎を打っていたら即半身か全身麻痺?付随?だったのは良かったのかな。

35歳を目処に独立開業、というのも、他の同年代の人間より身体の衰えが早く、40歳前後で車椅子生活でしょうと言われたから。現実的ではない目標なのと、もちろんオーナーをたてての共同経営とはいえ、わたしは補佐的な役割が向いているのとで目標は変えた。ますます非チェーン店の、飲食店の生き残りが厳しいのもある。踊っていた時もアシスタント、お仕事ではマネージャー補佐やホール主任をさせてもらったことがあっても、店長補佐的な業務はより結果を出せたし、性格や考え方も表舞台のトップよりは縁の下で支える感じがすき。独立のために勉強したことはまたどこかで活かせるだろうしとりあえず資格をとる土台をつくりましょう。

先日、良いお客様にあたって、ボトルを入れてもらうのが立て続いた手当がギフト券だった。このご時世に!?紙切れか!?電子マネーを任意の金額チャージとかしてくれたらいいのにーは難しいんだろなあ。