下京と立命館。わたしにとっての京都は、も、死人の影響を強く受けている。150年目もともにありたいですねと願いを込めて、初めて登ったタワーからの景色はあまりにもお行儀がよい。雑多な場所こそわたしであり、だから京都は住むだとかなんだとかではなく、ふらり、ときたま、帰る場所。あるいは、変化をうれしく思いつつ悲しくもなる、その姿勢が京都ならばわたしも"正しく"京都人なのです。ありえたかもしれない過去ではなく未来を巡らせることが増えている気がして、それはおそらく自他ともにおおきな変化だ。かもしれない。ありえたとしてもわたしはやはりわたしではないモノを尊重したくて、それってサービス提供者としては息が長くても個としては毎日どころか毎時毎分つらくてたまらない。息苦しい。生きをやるのが苦しい。なぜともにあれないのかと、責めたくなるときはあるのに、でも対面していないできないからこそで、いざとなれば責めるよりも……なんでしょうね。問うてみたい。なぜですか。代わりにあなたの寿命が縮んだのならばなぜなのかと、問う振りをして責めたいのです。