お酒に逃げるたび、なぜか母親がよぎる今日この頃。彼女は彼女なりにつらくて、なのにわたしはわたしのつらさばかり優先して、どうして「ママもつらいのね」って、よしよししてあげられなかったんだろう。たまたま親って役にあたっただけなのにね。責任をとることは、おそらく重要だ。けれど、なぜ責任をとる役割りについているのかを見落としてしまうと、無責任さを追及するのではなく、たんなる罵倒になりさがるのじゃないかしらん。なんて思うのは、もしかしたらわたしがそうしてほしいから、かもしれない。責任を負うのを好んでもいるのでしょうが。あずかり知らぬわたし、というのはおそらくまだまだあるはずだ。実は生きていたいわたし、実は自分を守りたいわたし、など。守りたいと、どこかで思っているから乖離を起こすのかもしれない。最近は意識して赤ちゃんになる、みんなたちの言葉ではたぶん肩の力を抜くとか甘えるとか、それてなんとかやれている自覚はあるけれど、時々、どこにいるのやかわからない。ここにいないのは確かな気配が強いと、他者にご指摘を受けて、いよいよ他害してしまう前に卒業したくもあるのですが、そうするとわたしの他者のためにという夢は叶えられず、なので意地汚くも不恰好にもやるしかないのです。