パートナー絡みの諸々は、ここと決めた場所以外に持ち出さないお気持ちを改めて強めたりしつつ、それはそれこれはこれと、切り分けようとするあたりが冷たいととられるのだろうか。わたしにとってそのような姿勢は優しさあるいは誠実と呼ぶあたりのモノで、まあたんに呼び方が違うだけかもしれない。どうしてもこのわたしのためにを前面にはがんばれなくて、がんばるための道具としてパートナーをわたしは置きたがる。道具、という言葉から冷徹さを感じる人間こそ冷徹ではないのか。人間に八つ当たるのはよろしくないがモノにはあたってもよい、というのは人間以外のモノを軽く扱っているようにみえる。お気に入りの時計を念入りに、時間もお金もかけてケアするのと、生身の人間に気を配るのと、何が違うんだろう。逐一これらすべてを意識しているわけではなく、いわばエンジンをあたためる、そのような作業のひとつでしかない。考えること。他の存在を無視しないこと。これを失くしたわたしは、それはもうわたしではないでしょうね。