好き嫌いの物差しだけでは判断しかねる、という場面が増えたのではなく、そういう場面なのだと気付くことができるようになった。とはいえ、やはりまだ対話をしていて疲弊の色が見えることがある。見えるうちは国語に励みたい。この夢を見たらお茶断ちしよう、この方がこのような振る舞いをされるときはわたしを心配されているときだから。などと勝手な意味付けをするようになって飲酒の回数、曖昧になるための酔うためだけの飲酒は減った。またいつか馬鹿みたいに飲むときは来るかもしれないけれど。他者のために生きることが悪いことだなんて、誰も咎めていないのだから、わたしは他者のために生きるのです。他者を通してでしかわたしを認識できない。しかしそれは錯覚で、わたしを守るために他者を優先しているのであれば、やはりわたしにも自己防衛機能はあるらしい。フェイクニュースに飛びつくことを非難するとき、はたして真実を知っているのかと問われればたぶん知っていると答えられる人はすくないんじゃないかしら。ならば勝手な意味付けも錯覚も悪事とはいえないわね。