わたしは道具でありたい

気まぐれにタイトル欄を埋めてみた。声の調子は「私は敗者になりたい」といわれたトレーズ閣下な置鮎さんでお願いします。その他者の心配をたいせつにしたい一方で、都合のよい人間になってなにがよくないのかしらと、ひとまず疑ってしまう程度にはヒネクレモノですね。都合のよくない人間というと、どうしても手間がかかるとか、手間がかかるが積み重なったらめんどうだとか、あるいは扱いにくいだとか、それってなんだかわたしごときに割いてもらう部分が多くなるようであまり好ましくない。もちろん寂しいなとか甘えたいとかがないわけではなく、むしろ強いかもしれなくて、でもそんなの「補給させて!ご機嫌とって!」なんて一言なりなんなりお伝えすれば済むはずよねになってしまう。わざわざむくれてしまわなくても、伝えればよい。気軽にお伝えできない関係ならそもそもしてほしくないし。などといえるのは振り返ったときで、別にいつだって冷静ではいられぬし、感情に振り回されたくないけれど振り回されていたくもある。心が動かぬ人間が、別の人間の心を動かすのは無理よねという、ほとんど直感に近い教えにこれは由来してもいるけれど。まだうまく翻訳しきれない部分が多いテーマ(テーマなの?)ですが、人間が好きだと愛しいとわたしがいうとき、その人間になぜかわたしが含まれていないことは確かですね。かといって神様だなどとおごってはいないはず、いや、どうだろ。観察者と観察する対象と、紗幕を隔てたこちらとあちら、そのような感覚はやはり油断すると濃厚になってくる。ますます濃くなる前に、この思考とはいったんおさらばよ。