2021.01.23(sat)

うすらぼんやりとした記憶によると、若かったとき、働き始めの頃とか二十歳前後とか、いまよりずっとわたしはわたしなのだからわざわざカテゴライズしないでくれと逐一反抗していたが、特に今現在の診断名を告げられて以降は、それらを自分を縛る何かというよりは対策を探る手掛かりにしている感じが強まっている。たとえば時々の傾向をなんとなくつかむためにユングのタイプ論にもとづくテストをやる。インターネットに転がっているあれらの、どれかを。大枠は変わらないが、ああ微妙に論理と現実に寄っているなとか、まああまりひきずられないように記録を正確にとっているわけではないが、なんとなくを把握して、変わらない大枠の文章、その都度やるサイトを変えているので微妙に毎回違うニュアンスで表されるこのわたしを眺める。世界がハヤリヤマイに席巻されることに悲しみではなくなぜ落ち込むのかと、その落ち込みは修復不可能なモノに落胆する性格(タイプ)なんだと、心地よいあきらめの気持ちを呼べて、いくらか軽くなる。手前を責めて律しているその姿がまた他者を傷つける場合もあるのなら、多少は自罰の傾向をやわらげられるかもしれない。年齢とともに自分への甘さがよりよく出ているのを許せないと真っ先に思うのではなく、わたしがわたしを甘やかしているのとわたしがわたしを質しているのと、この身近な他者がともに過ごしていて苦しくないわたしはどちらだろうと考えてみる。他者を通して見るのが、合っているのかもしれないから、試す。合っていないかもしれないが、それはきっといつかのわたしが決めるでしょう。