仲違いをのぞまない相手とはセージのお話なんてしたくないから、やれあのネクタイは組み合わせが悪いだのシャツに皺があるだの、世話焼き全開になってしまう。セージカって、どうして兵隊さんみたいなぼんやりした茶色いスーツを好みがちなんだろう。まるでその当時を知っているかのようなこういう感覚はほかに、甲子園の試合開始のサイレンが空襲警報そのものでとても怖い。古のインターネットで一人かくれんぼや心霊スポット凸なんかをリアルタイムで追っかける程度にはオカルトが好きだし、輪廻転生はあってほしいと願っているけれど、信じているかどうかはわからない。この世ならざる何処かや何かがあれば、おもしろそうだからとういう気持ちと信じるかどうかはなんか違う気がする。生まれ変わりもあってほしいといいつつ、確かに生まれ変わりだと断定できなければあんまり意味がない気もするし。かたくるしい言い回しかできなくなったのかと恐れていたが、けっこうくだけた文章が並んでいてほっとする。"遊び"はなくしたくない。余裕、といってもいい。この時期にマスクを着用していない奴は普段の行いから云々というあの記事はブーメランだなあと呆れつつも、余裕がないと周囲に配慮ができなくなる部分だけはおおいに同意する。ハヤリヤマイ絡みの不幸で落ちてしまった7月初めのわたしは、近所のスーパーやコンビニの帰り道はいいでしょと、暑さもあいまって、マスクを外してしまった。ここに告白し、懺悔しておく。店内で「もらった」まま歩くなんて道にばら撒いているようなもんだ、というのはちょっと首をかしげるけれど(換気が非常に有効らしいからなんか、こう、ほら。うまくいえないな、これは。)、あの振る舞いはよくなかった。余裕がない状態にならないのもきっと大事で、でもそれだけではなくって、ああいまのわたしは余裕がないんだなと、ちゃあんと自覚できるようになりたい。もっと自分のことをわかってみたいという気持ちがうまれつつある。いかに早く死ぬかだけを目標にしていた時期が終わることも、そのあとがこんな風になるのも想像していなかったから、自分を観察するのは楽しい。まだ知らないわたしがいそうな気がする。ほんとうに好奇心がエンジンだなあ。