2022.10.08(sat)

痛みや苦しみを感じられるのは生きている証拠で、それは生を実感するためにも大切な感覚なんだというような考えに頷くたび、じゃあ以前のわたしはとんでもない嘘をつき続けていたのだなと情けなく、許せない気持ちが高まっていく。どかしらを切る、なんて半端なことをしていたのだから、そりゃあ生き残ってしまうし死に損なってしまうし、当然だ。結局生きたかったのかよと過去のわたしに呆れているだけでここ数年は非常に安定している。いつまた抑鬱におそわれるのだろうかとか、希死念慮がくるだろうかとか、ふわふわと頼りのない感覚、離人感などと呼ばれるモノに見舞われたらどうしようとくよくよ心配することもずいぶんと減った。ストレスをほとんど全部胃袋や頭?脳味噌?で受け止めて胃が痛み頭がズキズキとするかもしれなくて、それでもよいからとにかく請け負う諸々を増やしてみたのがわりあいに功を奏しているのかもしれない。ここで投げ出したときにどうなるだろうか……と想像してみる。投げ出してわたしはわたしを許せるのかと質してみる。いやあダメでしょうと、ここにいられる。いる理由ができる。かといって死ぬのがよくない、という考えへ鞍替えしたわけでもない。程度、なのだろう。たぶん。きっと。死んでしまえば解放されるのだ、死後は極楽なのだと信じる度合が高いか低いか、あるいは一定程度を超えるかどうか。そんな感じじゃないのかしら。年をとればとるほどラクになるはずだよという、その「ラク」は具体的にどのような状態かをもう聞けないけれど、たしかにラクになっている気配はここ数年、強くなっている。たとえば家族、血縁関係のある親兄弟にこだわるような人間は減り(減ったように見えているだけかもしれないが)、むしろ自分を中心に家族をつくっていたり、ひとりで生き延びようとしていたり。集団行動に固執するような人間も減った気がするが、これはたんにわたしも完全に学校から離れたからだろう。たぶん。同年代以上だと、苦労や弱音をあまり隠さなくなった気がする。見栄を張らなくなった、というのだろうか。同年代以下に対してどうすればよいのかしら……などという、共通の悩み、みたいなモノによる結束らしき何かがそうさせているだけかもしれない。ひとりで生き延びる。良し悪しはさておき、当面は生き延びなくてはいけない気がする。でもこれは誰にも頼らずに、という意味ではない。なんだろう。このあたりはまだうまくいえないな。ひとりで食べきれるカレーをつくろうと思えば固形のルーではなく粉末がよいらしいよとか、どこそこのスーパーは少量パックの野菜が豊富でシングルライフに最適よとか、情報交換を時々することはある。車を出してもらったついでに重いモノを買っておいたりなど、協力できそうなことを協力することもある。近しい生活のかたちは独居老人だろうか。あまり明るいイメージがないようにみられる言葉だけれど、老いた人間の一人暮らしにはきっとヒントがたくさんあるのだろう。積極的に死にたくならない限りは工夫して、やってみたいですね。この先ずうっと、なんて無理はいわない。いましばらく、すこしだけ、がんばってみるのです。