"生身"の限界とその先など

経験、という、ふわっふわ~なやつたちを言語化するカテゴリ。ずいぶんと書かずじまいだった。

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お客様と同じ人間である、生身のサービス提供者の価値が問われて久しい。いや、目にする機会が増えただけで常に、問われている。問い続けている。

千手観音の如く、3本以上の"手"を自在に動かしジガーを用いることなく適切なスピリッツやリキュールをシェイカーに入れる。豪華客船に設置されたその機械の映像が夕方のワイドショーで流れたのはもう10年以上前になる。レシピにおいての正解へ至る確実さを、生身の人間は超えられない。言わずもがな、正解は正解ではない。

任意の場面における対応の数を増やし、組み合わせの数も増やし、そうすれば生身の人間に近付けはする。機械にないもの、生身の人間にしか提供できないもの。それは付加価値だ。

とはよく聞くものの、付加価値だけなのか。"軸"は機械が、肉付けするのは人間が。分業こそがこの先の、外食産業や小売業、宿泊業界をより良くしてくれるのか。

ここで、飲食店の店内を想像してみる。テイクアウトメニューはなし、レストラン形式かつオーダーは端末を用いない飲食店の店内だ。

提供者はお客様が着席されてから、さまざまなことを察しようと努めている。

長らくメニューを眺められているのは決めかねているのか。それならば先にお冷やとおしぼりをご提供しつつ、オススメをお伝えすべきか。いや、複数名様だから会話を遮られる回数を減らすためひととおりの料理を決めようとされているのかもしれない。メニューが席のどこにあるのかわからずに困られてはいないか。着席と同時にお冷やとおしぼりが、なによりもまず提供されたいお客様なのか。注文をとるまでにも、考えるべきこと。考えればサービスの質が上がることは無限にある。

それらと同時に提供者である自らのコンディションも観察しておかねばならない。特にメンタル面が万全ではない気配があるならば、今このときの自分にはいかような工夫を施すべきか。当然、フィジカル面に突発的な不調が訪れることもある。特に私の場合は後者、自身のコンディションチェックが甘いのだが、それはまた別のお話。

常に、全力で向き合う。向き合ってこそ、不可能を可能に、お客様のご満足へ近付ける。

しかし当然、我々提供者もお客様と同じ人間。営業時間内とはいえ、疾走する速度を多少緩める必要もある。そんなときに単純作業はもってこいだ。カトラリを一定の数に揃える。洗い上がってきた食器類を定位置へ戻すなどなど。

これら単純だろうとされている作業は機械が、生身の人間はサービス提供に注力しよう。サービスの質やQOL向上のためにも!時々、そんな声を目にする。

機械と協力する。分業する。

それよりも棲み分けが必要だろうと感じている。ダイナーの類(たぐい)は機械がすべてを担う。ドライブスルーはきっと、機械たちの特性が存分に発揮されるだろう。

他方、生身の人間は、どのような形態の飲食店を担うようになるか。そこはまだ私のなかで不透明ではあるが、付加価値ではなく、価値そのものを提供し続ける。サービス提供者の姿勢は変わらないような気がしている。